母の庭、私の庭・・・・施設長 淡路由紀子
2022年2月20日

濃厚な母と娘の関係はもう戻らない。

夫と息子はそれぞれ食事を済ませ、自分たちの部屋で好きなことをする。早朝、彼らのお弁当作りと朝食の用意などから解放されるのが、私の日曜日だ。寝過ごしぼんやりと庭を眺める。
「私がいなくなったら、この庭はどうなることやら...。」
母がそう言った時は「私がするに決まってるやろ。なんでも自分一人でしてたようにゆうてから。」と思っていた。剪定の失敗つづき、植木鉢の雪対策など、できていないことがいっぱいだ。
私は目につくことを正すことに囚われがちで、たくさんの作業があることが後手にまわる。
物事には目標を理解し舵を取る人が必要だ。庭への母の思いや目標をたずねるべきだった。そうすればひとつずつの作業は、庭木や花が豊かに成育するためのお手伝いである、と。
生あるものへの愛情と献身とでもいうべきか。日常生活を愛おしむことのなかった私は、社会との接点である仕事に没頭してきた。はたしてその仕事とは、まさに庭の世話によく似ている。とはいえ娘としてのわだかまりは、認識不足のつけとなり今もくすぶり続けている。
悔やむことは山ほどあって、とりわけまだ生きている母をこの家で、この庭を眺めさせてやれないこと。
それは到底できなかったことなのに、出口のない気持ちでぐちゃぐちゃになる。私と同じような思いをされている家族は、どのように克服しているのだろうか。入居者が亡くなった後、グリーフケアをもっと強化していこうと話し合っているが、
生き別れのケアの方が重要と思うこの頃である。
コロナ禍で家族面会が以前と様変わりしても、ひと目会いたいと思う家族が後を立たない。それぞれの思いを胸に何がしかの答えを求めているのだろうか。
「家から追い出そう思ってるやろっ。」
そう言い放った母の言葉は、その時の解釈と今とでは変わってきた。どんなに頑張っても報われないという悲しい倦怠感から、頑張れなかった自分の無力感に。
母はこの状況をどう思っているのか私は知りたい。そう思う理由は、私がこの状況をしっかりと理解していないことだ。自覚すべきは母の認知症の件で、彼女の人間性や価値観といったことを考えず、母と娘の関係を喪失させていることだ。この喪失感に向き合えない日々を送っているのだろう。